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「篤姫」のご紹介

「篤姫」に関すること、
 ゆかりの地・人物などを紹介します

天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)

イメージ画像:天璋院篤姫

 篤姫は天保6年(1835)、島津家の分家のひとつ・今和泉島津家に生まれました。嘉永6年(1853)に、島津家当主・斉彬の養女から、江戸幕府の第13代将軍・徳川家定の正室となりました。嫁いでから約1年半後、病弱だった家定が亡くなり、篤姫はわずか23歳で落飾して、「天璋院」と号しました。
 将軍の跡継ぎをめぐる幕府内の権力争い、また、故郷・薩摩藩を中心とした倒幕運動の激化など、明治維新の動乱の中、大奥を預かる総帥として、新しい日本の幕開け、徳川家存続のために力を尽くしました。
 慶応4年(1868)、江戸城に迫る西郷隆盛ら薩摩藩を中心とした新政府軍に働きかけ、江戸城無血開城の実現にも大きな役割を果たしました。

家計図・相関図

篤姫の歴史

天保6(1835)年
12月、薩摩藩今和泉島津家の忠剛の娘として生まれる。
嘉永6(1853)年
島津家本家斉彬の養女となり、今和泉家から鶴丸城に入る。
鹿児島を発ち、江戸の薩摩藩邸に移る。
安政3(1856)年
近衛家の養女となり、第13代将軍・家定の御台所となる。
安政5(1858)年
養父斉彬、家定が死去。落飾し天璋院と号す。
慶応4(1868)年
戊辰戦争が勃発。江戸城無血開城に伴い、一橋邸に移る。
明治元(1868)年
江戸を東京と改める。
明治16(1883)年
11月、死去、49歳。

篤姫ゆかりの人物 ― 幕末を駆け抜けた薩摩人 ―

イメージ画像:小松帯刀

小松帯刀(こまつたてわき)

 幻の宰相と呼ばれた家老。
 篤姫と同じ天保6年(1835)、喜入(現鹿児島市)領主の肝付兼善の三男として生まれました。島津斉彬の命により、吉利(現日置市)領主・小松家の養子となりました。
 文久2年(1862)、若くして薩摩藩家老となり、西郷・大久保といった薩摩の志士たちの活動を支え続けました。
 薩長同盟の立役者・坂本龍馬とも深い親交を持ち、薩摩藩を明治維新のリーダーに押し上げることに尽力しましたが、明治3年(1870)に病気のため、36歳の若さで亡くなりました。

イメージ画像:西郷隆盛

西郷隆盛(さいごうたかもり)

 明治維新の立役者。
 文政10年(1827)、薩摩藩の下級武士の家に生まれましたが、島津斉彬に取り立てられ、側近として活躍しました。
 篤姫婚姻の際には、江戸薩摩藩邸のお庭番として婚儀を支えるとともに、一橋慶喜を次期将軍に擁立するための大奥工作の要人として篤姫と関わりました。
 維新後も、徳川家存続のために奔走する篤姫から嘆願書を委ねられるなど篤姫との深い関わりがありましたが、明治10年(1877)に西南戦争で亡くなりました。

イメージ画像:大久保利通

大久保利通(おおくぼとしみち)

 文政13年(1830)、薩摩藩の下級武士の家に生まれ、幼少期から西郷隆盛と兄弟のように親しく育ちました。
 嘉永3年(1850)に起きたお家騒動に巻き込まれ、長く謹慎生活を送りましたが、のちに島津久光に見出され、明治維新を成し遂げるために大活躍しました。
 維新後は、版籍奉還、廃藩置県など明治政府の中央集権体制を確立しました。西南戦争の翌年の明治11年(1878)、紀尾井坂(東京都千代田区)にて命を奪われました。

イメージ画像:島津斉彬

島津斉彬(しまづなりあきら)

 幕末を代表する名君。篤姫の養父。
 島津家第28代当主として薩摩藩の富国強兵に成功するとともに、西郷隆盛や小松帯刀など幕末の偉人を育てた、明治維新の生みの親とも言える人物。
 篤姫を養女として、江戸幕府第13代将軍・家定との結婚を成立させました。将軍の継承問題が起きると、水戸藩主徳川斉昭、越前藩主松永慶永らと一橋慶喜を擁立しようと企画しましたが、井伊直弼の大老就任で挫折しました。
 篤姫の婚姻からわずか2年後の安政5年(1858)、病気により急死。篤姫のその後も近代日本の行く末も見ることはできませんでした。

篤姫が生まれ育ったまち ― 鹿児島市 ―

写真:
今和泉島津家本邸跡

 篤姫が生まれた今和泉島津家の本邸は、鹿児島城下の北側、現在通称上町(かんまち)と呼ばれるあたりにありました。この本宅のほかに城下に4箇所の屋敷があり、篤姫は鹿児島での時間の多くを海辺にあった浜屋敷で過ごしたと考えられています。また磯にも屋敷があり、そこに至る海沿いの田ノ浦や多賀山は名勝として知られていました。
 嘉永6年(1853)、島津斉彬の養女として約2ヶ月余りを鹿児島(鶴丸)城で過ごした後、篤姫は将軍家に嫁ぐため京都や江戸へ向けて出発しました。

篤姫ゆかりの地 ― 指宿・今和泉 ―

写真:
今和泉島津家別邸跡

 鹿児島城下から南に40キロ(列車で約50分)、現在の指宿市北部に今和泉郷はあります。延享元年(1744)、島津家22代当主継豊の弟である忠郷により今和泉島津家が再興され、この地の領主となりました。このため今和泉島津家ゆかりの史跡が数多く点在しています。
 現在の今和泉小学校や指宿商業高校の敷地に、今和泉島津家の別邸(本邸は鹿児島城下)はありました。小学校に隣接する海岸付近には、篤姫も幼少の頃、眺めていたであろう松林や屋敷の石垣が残っています。